2009年7月14日火曜日

持続可能なコミュニティ再生の課題

はじめに

 かつて人口の大移動による人口流出と流入は、過疎と過密の問題を引き起こしたが、今や都市部においても少子高齢化の影響による限界化や、コミュニティ機能の衰退が見られるようになってきた。コミュニティ再生は可能か、その糸口は何かについて考える。

1 なぜコミュニティは衰退しているのか

 集団生活をする人間にとって、家庭に次いで一番身近な生活空間はコミュニティであり、それは時には行政の末端組織でもある。かつて人々が暮らし、働き、ほぼ一生の生活をおくったコミュニティという舞台は、今では子供や高齢者以外にとっては単なる寝る場所になってしまった。近代の行政国家化、とりわけ戦後の福祉国家化の進展は、家族や個人が地域の人々と共同性を発揮していく必要性を減少させてきた。それが都市化であり、封建的な縛りからの開放でもあった。とりわけ産業化が進んだ都市部では、サラリーマンなど第2次産業、第3次産業に従事するものが多く、もっぱら終日を地域外で働き、子育て、福祉、地域機能の維持、生活環境の保全など多くの役割が、行政の仕事となっていった。さらに共働きが増えるなかで、保育やコンビニ、外食サービスなど、地域のみならず家庭の機能も外部化することが一気に進展してきた。このような現代社会が提供する高度な行政・民間サービスは、個々人が役務を提供して支えあう社会の仕組みを不要なものにしてきたといえよう。

 このことを、協調的行動や向社会性の行動と関わるソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の視点から分析すると、都市のスプロール化、労働の変化、TVの浸透、世代効果などを、コミュニティを支えてきたソーシャル・キャピタルを減少させた犯人として考えることができる。

 パットナムが『孤独なボウリング』で検証したように、まず都市のスプロール化は、多重な公共投資の無駄を社会にもたらすとともに、個人には見知らぬ新住民が郊外に集まって暮らすまちの形態をもたらす。長時間化した日本の労働環境で、さらに長時間の通勤を強いられ、地域には夜と休日しかいない「パートタイム住民」ばかりになってしまう。このコミュニティには、集まってきた人々を繋ぐ何の共通性、伝統、習慣もなく、共同性に期待する自治会活動などの役務は、鬱陶しいものとして忌避される。

 第二に、労働の変化は、地域で暮らす農家や町工場、商店などを減少させ、遠くに働きに行くサラリーマンを増加させてきた。そこに女性も労働者として参入し、これまで無償労働ではあったが地域を機能させるために重要な地域活動を支えてきたマンパワーを現代社会は失ってしまった。男女共同参画社会政策で女性の労働力化が進展したが、地域や家庭を支える役割を担う者の補充ができていない。年金制度の充実は、高齢者という「全日制住民」をその能力・体力・意志にかかわらず退職者という自由人にしてしまい、地域を支える役割よりも、グランドゴルフや趣味に時間を過ごすライフスタイルに没頭させている。

 第三に、テレビはかつて一家に一台で家族や隣人と見るものであったが、今では一人一人が自分の部屋で24時間自由に見るものになった。夕暮れ時、縁側や門の前で近所の人と立ち話をしたりして過ごす光景は過去のものになった。老人も、家に引きこもって、大型TVの前で一人時間を過ごしているのが現代である。さらに今は、インターネットや携帯電話が、TV以上の個人化、引きこもりを助長している。

 最後に、世代効果がある。「世界価値観調査」などによると世代間のライフスタイルや価値観は明らかに異なる傾向を示している。戦後の価値観は、物質主義的価値観から脱物質主義的価値観へ、共同性を重視する価値観から個人主義化、功利主義化へと変化してきた。「善き社会」をつくるといった企てが、自分にも責任があるという考え方が薄くなってきている。米国におけるソーシャル・キャピタルの測定では、明らかに若者は高齢者の持つソーシャル・キャピタルを支えるマインドを受け継いではいないことが示されている。これは我々が日本で行った農村集落の調査でも、例外ではない。

 それでは人々が廃棄してきたコミュニティは、そもそも必要なのかという疑問がわく。ウエルマンの研究では、かつての共同性の強いコミュニティは既に衰退したという分析とともに、実は抑圧的なコミュニティが変化して自由化されているのだという考え方や、さらには地縁的なコミュニティは崩壊しているが、職場の友人や遠くの家族関係をベースとした新しいタイプのコミュニティが誕生しているという変化が明らかにされた。それはもはやコミュニティと呼ばないという考え方もあるが、やはり人々の繋がりのあるコミュニティは必要だという考え方は多く支持されているように思える。

 孤独死、鬱の蔓延は個人主義化した社会の病理であり、水路・農道の管理、子供や高齢者の見守り、雪かきなどの困難性も共同性を失い始めた社会の衰退と見える。行政サービスとしては期待しづらく地域の人々が連帯で支え合った行為の価値が、改めて注目されている。「ご近所の底力」などのTV番組でも、防犯、公共交通の維持など、種々の公共財を作り出す人々の工夫を紹介しているが、そのことこそが、コミュニティを維持することへのコンセンサスが困難な現実を物語っている。このような状況に対して行政による「新しい公」を強化しようとする取組も始まってきた。ただこの「新しい公」の主張は、新自由主義的な「小さな政府」を指向した福祉国家の転換策として生み出されたアイデアであり、政府の行政サービス提供責任の住民への転嫁という意図があったことも考えておかなければならないだろう。

3 生活空間としてのコミュニティ

 ここでコミュニタリアン的な規範論ではなく、進化生物学的な考察を試みてみよう。都市には生活空間としてのコミュニティが必要だという前提で考えることにする。すなわち、協力空間の進化を促す社会制度の発明が都市政策に求められていると問題を捉えてみよう。

 ソーシャル・キャピタルの研究から、人々が協力する条件として危機の到来が挙げられる。大地震、洪水、戦争などの場合、人々は本能的に共同する。これはヒトという種が進化する過程で遺伝子に埋め込まれた反応である。しかし、平時に、如何に共同性を作り出し得るのか。確かにコミュニティという集団レベルでは、コミュニティが提供する公共財や、安心・安全が欲しいと考える。他方で、個人レベルではそれらの互恵的利他的行為は鬱陶しいと感じられ、個人は参加を避けようとする。フリーライダーという選択肢は、個人レベルでは一番利得が高い。しかしフリーライダーが多数派になったら、だれも利他的な行為を行おうとしなくなる。結果として、地域の共同性は失われていく負のサイクルに陥る。

 進化政治学的には、互恵的利他行為を促進する仕掛けとしてどのようなことが考えられるであろうか。人間は、合理性だけでは判断していないことが分かっている。社会心理学研究者の山岸は、集団協力ヒューリスティック仮説を提唱している。人々が、あらゆる可能性を合理的に判断して行動することが難しいとき、とりあえず採用する行動戦略をデフォルト戦略というが、人々が持っている「評判維持戦略」がデフォルト戦略になると互恵的利他行為を促進させるのに有効であることが分かってきた。これは、他者からの監視が集団内での評判につながる可能性がある場合のみ、集団内の他者に対する利他行動が生み出され、その傾向はデフォルトとして進化していく。環境として、共同行為を行わないことが明らかに地域においてまずい行動であるという認知、規範の圧迫がデフォルト戦略には必要である。

 このような議論は、「自由」を至上の価値ととらえてきた現代人にとって、感覚的に受け入れがたいものかもしれない。しかし、ギリシャ時代から自由であるために国家に対して一定に責任を果たすことは、国民の義務であり名誉であると考えられてきた。「徳」を重んじる気風を失い、功利主義的にうまく立ち回ることを賢いこととする「負荷なき自我」に溺れてしまった都市住民にとっては、ハードルの高い要請かもしれない。

 施策としては、このような行動を強いる「評判」が成立する環境、生活空間が必要である。根無し草のような住民には、地縁的なコミュニティ空間は実質的に存在していないに等しいことから、コミュニティのメンバーであることの認知がまず求められる。そのような人間へと教育啓発するには、特別なことではなく家庭教育、学校、社会教育のなかで教え、体験させ、併せて向社会性の倫理・慣行づくりを行うことが不可欠である。また、単に責務というだけではなく、祭りやイベント、地域活動などへの参加を通して、人を知り、楽しみ、自分の居場所や社会的責任感を発見するような役割を地域住民が順番に担っていくといった社会経験のための教育的仕組みが必要である。おそらく、この部分が一番難しい社会制度の発明であろう。さらに、政治的なメッセージとして、政府は個人主義の行き過ぎを抑え、家族や地域社会に対する役割を一人一人が担うべきという「善き社会」の構想を語り、それを折々のメッセージとして発信し、そのような国民の行動を促すことも重要である。

 たとえば例が適切かどうかは別として、シンガポールは明快にアジア的倫理観を基礎とした家庭、地域社会の関係性を国民に示し、政策として強化してきた。自由意志のもと、合理的判断で互恵的利他的行為の価値を説いたところで、それはほとんど行動変容にはつながらない。生物であるホモサピエンスの遺伝子は、共同性の中で生き抜いてきた歴史が刻まれている。20世紀以降の科学技術は、そのような共同性を必要としない社会を創造し、その生活環境はコミュニティを支える方向ではなく、短期的な個の利得を増す方向に働いてしまった。住民を、地域と繋がりのない自由人ではなく、地域とコミットさせる方法をうまく工夫し、共同性を醸成する仕掛けが求められる。

 NPOやボランティアといった機能的な非営利組織も地縁団体の衰退を補う若干の役割を担うであろうし、コミュニティビジネスという形で地域から退出した女性たちの機能を補完する工夫も必要である。しかし、これらの機能は地縁団体を完全に補完するものではあり得ない。持続可能なコミュティが必要であるならば、新興住民も再定着化して地縁化するような、地域人材リバイバルのメカニズムを自ら創り上げることが求められる。

むすびにかえて

 高齢社会においてコミュニティの強弱が、最後の防波堤になる可能性がある。しかしながら、現代社会の近代化、個人化のスピードは衰えを知らない。アーミッシュのような智慧を我々がもてたら、ブッダが教えた煩悩を追いかけることの愚を理解することができたら、世界は違ったものになるであろうが、知識と技術を手にしたヒトは、どこに向かっているのかよく分からないまま走り続けている。

 社会制度としてコミュニティを再生するには、公共政策的には都市のスプロール化を止めること、住み替えの促進で世代の混住を図ること、男女いずれでもよいが夫婦がフルタイムで働かないライフスタイルと雇用環境の実現、個人の安易な自由や自己実現ばかりを追いかける生き方を改めること、24時間営業のコンビニやTV放送を止めることなどで、地域や家庭内のコミュニケーションと役割分担が促進されると考える。

熊本大学大学院社会文化科学研究科 教授 上野眞也

                  政策創造研究教育センター

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