2009年7月14日火曜日

持続可能なコミュニティ再生の課題

はじめに

 かつて人口の大移動による人口流出と流入は、過疎と過密の問題を引き起こしたが、今や都市部においても少子高齢化の影響による限界化や、コミュニティ機能の衰退が見られるようになってきた。コミュニティ再生は可能か、その糸口は何かについて考える。

1 なぜコミュニティは衰退しているのか

 集団生活をする人間にとって、家庭に次いで一番身近な生活空間はコミュニティであり、それは時には行政の末端組織でもある。かつて人々が暮らし、働き、ほぼ一生の生活をおくったコミュニティという舞台は、今では子供や高齢者以外にとっては単なる寝る場所になってしまった。近代の行政国家化、とりわけ戦後の福祉国家化の進展は、家族や個人が地域の人々と共同性を発揮していく必要性を減少させてきた。それが都市化であり、封建的な縛りからの開放でもあった。とりわけ産業化が進んだ都市部では、サラリーマンなど第2次産業、第3次産業に従事するものが多く、もっぱら終日を地域外で働き、子育て、福祉、地域機能の維持、生活環境の保全など多くの役割が、行政の仕事となっていった。さらに共働きが増えるなかで、保育やコンビニ、外食サービスなど、地域のみならず家庭の機能も外部化することが一気に進展してきた。このような現代社会が提供する高度な行政・民間サービスは、個々人が役務を提供して支えあう社会の仕組みを不要なものにしてきたといえよう。

 このことを、協調的行動や向社会性の行動と関わるソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の視点から分析すると、都市のスプロール化、労働の変化、TVの浸透、世代効果などを、コミュニティを支えてきたソーシャル・キャピタルを減少させた犯人として考えることができる。

 パットナムが『孤独なボウリング』で検証したように、まず都市のスプロール化は、多重な公共投資の無駄を社会にもたらすとともに、個人には見知らぬ新住民が郊外に集まって暮らすまちの形態をもたらす。長時間化した日本の労働環境で、さらに長時間の通勤を強いられ、地域には夜と休日しかいない「パートタイム住民」ばかりになってしまう。このコミュニティには、集まってきた人々を繋ぐ何の共通性、伝統、習慣もなく、共同性に期待する自治会活動などの役務は、鬱陶しいものとして忌避される。

 第二に、労働の変化は、地域で暮らす農家や町工場、商店などを減少させ、遠くに働きに行くサラリーマンを増加させてきた。そこに女性も労働者として参入し、これまで無償労働ではあったが地域を機能させるために重要な地域活動を支えてきたマンパワーを現代社会は失ってしまった。男女共同参画社会政策で女性の労働力化が進展したが、地域や家庭を支える役割を担う者の補充ができていない。年金制度の充実は、高齢者という「全日制住民」をその能力・体力・意志にかかわらず退職者という自由人にしてしまい、地域を支える役割よりも、グランドゴルフや趣味に時間を過ごすライフスタイルに没頭させている。

 第三に、テレビはかつて一家に一台で家族や隣人と見るものであったが、今では一人一人が自分の部屋で24時間自由に見るものになった。夕暮れ時、縁側や門の前で近所の人と立ち話をしたりして過ごす光景は過去のものになった。老人も、家に引きこもって、大型TVの前で一人時間を過ごしているのが現代である。さらに今は、インターネットや携帯電話が、TV以上の個人化、引きこもりを助長している。

 最後に、世代効果がある。「世界価値観調査」などによると世代間のライフスタイルや価値観は明らかに異なる傾向を示している。戦後の価値観は、物質主義的価値観から脱物質主義的価値観へ、共同性を重視する価値観から個人主義化、功利主義化へと変化してきた。「善き社会」をつくるといった企てが、自分にも責任があるという考え方が薄くなってきている。米国におけるソーシャル・キャピタルの測定では、明らかに若者は高齢者の持つソーシャル・キャピタルを支えるマインドを受け継いではいないことが示されている。これは我々が日本で行った農村集落の調査でも、例外ではない。

 それでは人々が廃棄してきたコミュニティは、そもそも必要なのかという疑問がわく。ウエルマンの研究では、かつての共同性の強いコミュニティは既に衰退したという分析とともに、実は抑圧的なコミュニティが変化して自由化されているのだという考え方や、さらには地縁的なコミュニティは崩壊しているが、職場の友人や遠くの家族関係をベースとした新しいタイプのコミュニティが誕生しているという変化が明らかにされた。それはもはやコミュニティと呼ばないという考え方もあるが、やはり人々の繋がりのあるコミュニティは必要だという考え方は多く支持されているように思える。

 孤独死、鬱の蔓延は個人主義化した社会の病理であり、水路・農道の管理、子供や高齢者の見守り、雪かきなどの困難性も共同性を失い始めた社会の衰退と見える。行政サービスとしては期待しづらく地域の人々が連帯で支え合った行為の価値が、改めて注目されている。「ご近所の底力」などのTV番組でも、防犯、公共交通の維持など、種々の公共財を作り出す人々の工夫を紹介しているが、そのことこそが、コミュニティを維持することへのコンセンサスが困難な現実を物語っている。このような状況に対して行政による「新しい公」を強化しようとする取組も始まってきた。ただこの「新しい公」の主張は、新自由主義的な「小さな政府」を指向した福祉国家の転換策として生み出されたアイデアであり、政府の行政サービス提供責任の住民への転嫁という意図があったことも考えておかなければならないだろう。

3 生活空間としてのコミュニティ

 ここでコミュニタリアン的な規範論ではなく、進化生物学的な考察を試みてみよう。都市には生活空間としてのコミュニティが必要だという前提で考えることにする。すなわち、協力空間の進化を促す社会制度の発明が都市政策に求められていると問題を捉えてみよう。

 ソーシャル・キャピタルの研究から、人々が協力する条件として危機の到来が挙げられる。大地震、洪水、戦争などの場合、人々は本能的に共同する。これはヒトという種が進化する過程で遺伝子に埋め込まれた反応である。しかし、平時に、如何に共同性を作り出し得るのか。確かにコミュニティという集団レベルでは、コミュニティが提供する公共財や、安心・安全が欲しいと考える。他方で、個人レベルではそれらの互恵的利他的行為は鬱陶しいと感じられ、個人は参加を避けようとする。フリーライダーという選択肢は、個人レベルでは一番利得が高い。しかしフリーライダーが多数派になったら、だれも利他的な行為を行おうとしなくなる。結果として、地域の共同性は失われていく負のサイクルに陥る。

 進化政治学的には、互恵的利他行為を促進する仕掛けとしてどのようなことが考えられるであろうか。人間は、合理性だけでは判断していないことが分かっている。社会心理学研究者の山岸は、集団協力ヒューリスティック仮説を提唱している。人々が、あらゆる可能性を合理的に判断して行動することが難しいとき、とりあえず採用する行動戦略をデフォルト戦略というが、人々が持っている「評判維持戦略」がデフォルト戦略になると互恵的利他行為を促進させるのに有効であることが分かってきた。これは、他者からの監視が集団内での評判につながる可能性がある場合のみ、集団内の他者に対する利他行動が生み出され、その傾向はデフォルトとして進化していく。環境として、共同行為を行わないことが明らかに地域においてまずい行動であるという認知、規範の圧迫がデフォルト戦略には必要である。

 このような議論は、「自由」を至上の価値ととらえてきた現代人にとって、感覚的に受け入れがたいものかもしれない。しかし、ギリシャ時代から自由であるために国家に対して一定に責任を果たすことは、国民の義務であり名誉であると考えられてきた。「徳」を重んじる気風を失い、功利主義的にうまく立ち回ることを賢いこととする「負荷なき自我」に溺れてしまった都市住民にとっては、ハードルの高い要請かもしれない。

 施策としては、このような行動を強いる「評判」が成立する環境、生活空間が必要である。根無し草のような住民には、地縁的なコミュニティ空間は実質的に存在していないに等しいことから、コミュニティのメンバーであることの認知がまず求められる。そのような人間へと教育啓発するには、特別なことではなく家庭教育、学校、社会教育のなかで教え、体験させ、併せて向社会性の倫理・慣行づくりを行うことが不可欠である。また、単に責務というだけではなく、祭りやイベント、地域活動などへの参加を通して、人を知り、楽しみ、自分の居場所や社会的責任感を発見するような役割を地域住民が順番に担っていくといった社会経験のための教育的仕組みが必要である。おそらく、この部分が一番難しい社会制度の発明であろう。さらに、政治的なメッセージとして、政府は個人主義の行き過ぎを抑え、家族や地域社会に対する役割を一人一人が担うべきという「善き社会」の構想を語り、それを折々のメッセージとして発信し、そのような国民の行動を促すことも重要である。

 たとえば例が適切かどうかは別として、シンガポールは明快にアジア的倫理観を基礎とした家庭、地域社会の関係性を国民に示し、政策として強化してきた。自由意志のもと、合理的判断で互恵的利他的行為の価値を説いたところで、それはほとんど行動変容にはつながらない。生物であるホモサピエンスの遺伝子は、共同性の中で生き抜いてきた歴史が刻まれている。20世紀以降の科学技術は、そのような共同性を必要としない社会を創造し、その生活環境はコミュニティを支える方向ではなく、短期的な個の利得を増す方向に働いてしまった。住民を、地域と繋がりのない自由人ではなく、地域とコミットさせる方法をうまく工夫し、共同性を醸成する仕掛けが求められる。

 NPOやボランティアといった機能的な非営利組織も地縁団体の衰退を補う若干の役割を担うであろうし、コミュニティビジネスという形で地域から退出した女性たちの機能を補完する工夫も必要である。しかし、これらの機能は地縁団体を完全に補完するものではあり得ない。持続可能なコミュティが必要であるならば、新興住民も再定着化して地縁化するような、地域人材リバイバルのメカニズムを自ら創り上げることが求められる。

むすびにかえて

 高齢社会においてコミュニティの強弱が、最後の防波堤になる可能性がある。しかしながら、現代社会の近代化、個人化のスピードは衰えを知らない。アーミッシュのような智慧を我々がもてたら、ブッダが教えた煩悩を追いかけることの愚を理解することができたら、世界は違ったものになるであろうが、知識と技術を手にしたヒトは、どこに向かっているのかよく分からないまま走り続けている。

 社会制度としてコミュニティを再生するには、公共政策的には都市のスプロール化を止めること、住み替えの促進で世代の混住を図ること、男女いずれでもよいが夫婦がフルタイムで働かないライフスタイルと雇用環境の実現、個人の安易な自由や自己実現ばかりを追いかける生き方を改めること、24時間営業のコンビニやTV放送を止めることなどで、地域や家庭内のコミュニケーションと役割分担が促進されると考える。

熊本大学大学院社会文化科学研究科 教授 上野眞也

                  政策創造研究教育センター

2009年7月11日土曜日

地方議会は誰を見ているのか

地方議会は誰を見ているのか  上野眞也

議会を支える代議制民主主義について、著名な経済学者ハイエクは「人間がいままでに発見した平和的な政権交代の唯一の方法として、それは消極的な価値ではあるが、最高の価値の一つである」といっている。しかしこの民主主義制度の致命的欠陥は、特殊な集団に有利となるような計画を支持するためには、組織された多数派を形成することが不可欠であり、議会の多数が多数派にとどまるためには、種々の利益集団に特殊な便益を与えることが必要となる。つまり支持を獲得するためには、なし得ることをしなければならず、それが政党や議員行動の恣意性をもたらし不公平の源泉となっている。公選された議員によって組織され、住民の意思を代表し、合議制により決定する議会制度が言われるほどには民意を代表していないということは、誰もが感じていることである。

 福祉国家体制が充実するにつれ、家庭やコミュニティ機能の衰えを公的サービスは補ってきた。しかしいま、人口減少社会、経済成長の分配が減少する時代に突入し、まったく新たな政策的対応が求められているが、国民は増税には反対し、行政の効率化により従来の公的サービスが維持されることを期待している。しかしそれがほとんど不可能であることは明らかであり、増税を避けるとすれば、住民の間で既得権化してしまった種々の公的サービスを廃止したり、受益者負担を増したりすることが政策として取りうる唯一の方策となる。改革が求められる時代の首長は、住民の既得権を侵すという冒険を行わなければならない損な役回りである。もちろんわが国では、行政の代表者である首長とて、すべてを一人で決める権限は与えられていない。地方議会は、執行部の組織や予算、条例などを決定することを通して、首長が何を行うべきかを決める強い権限を有している。つまり多様な意見を統合し、政策形成を行うことは議会の重要な使命であるが、その低下が著しく、世論形成やその表明についても、マスコミにその地位を奪われている。

 このような意味において、住民の代表であるという地方議会は、果たして民主主義制度上期待されている役割を果たしているといえるのだろうか。近年たくさんの住民が行政の委員会や審議会に公募で参加し、また直接自分の意見を首長に提案することを求めている。行政が行う事業の企画から執行、評価に至るまで住民が直接参画するということは、住民参加の視点から大変価値があるとされる。

しかし他方で、本来地域の政策方針を議論し決定する役割を担うべき地方議会や議員に対して、選挙時を除いて誰も関心を持っていない。議会も住民に対して、議会における検討状況や結果について丁寧に説明を行うとか、住民の声を議会が聞く機会を作るなど、住民を向いた議会活動をしているところはわずかである。その点で、住民が手っ取り早く行政に参加したがる気持ちも理解できるが、本来政策選択の価値観をどう考えるかといった議論も含めて多様な利害の調整を行う政治の場、つまり議会が住民を向いた対応を行うべきであり、地方分権の時代にあっては住民が議会の審議に何らかの形で意見を表明し参画できるような機会を、議会自らが作っていくような改革をするべきではないかと考える。

 また議会が住民にもわかるようにテーブルの上で方針決定の議論を行わず,執行部に事前根回しを求めることは机の下で利害調整を求めることと同じであり、住民の議会への信頼感を失わせている。議会は期待に値していないという住民の不信は、行政への住民参加の要求や、直接民主主義的な住民投票など、地方議会を迂回した住民行動に結びついてくることになった。

 議会の信頼性回復が、地方自治を深化させる重要な鍵である。議会の権威は、住民の信頼を得た活動を不断に行うことからしか生まれないという当り前のことを自覚する議員を選ぶということを住民の責務としても考えたい。

(この原稿は、2006年10月に熊本日日新聞社の論壇に寄稿した元原稿です)

「信頼」を育む社会に

「信頼」を育む社会に      上野眞也

 今年最後の日、1年を振り返り、私たちがどこに向かいつつあるのか考えてみよう。姜尚中教授は1217日の「論壇」で、 06年のイメージを「虚」とした。文化・宗教摩擦による対立や紛争が世界を覆い、国内でも学校のいじめや首長の逮捕、自治体の破綻と哀しいニュースが連日報じられた。一段とグロテスク化していく世界経済や肥大化する国家意識がもたらそうとしている世界が、さらに虚ろなものになるであろうと私も想像する。来る07年にぜひ期待したいことは、身近なところから「信頼」という社会の資産を増やすという試みだ。

 東京湾越しに眺める都心の景色には、東京タワーより高く聳える沢山の建設中の超高層ビルが映え、バブル期を越える活況を享受し莫大な収入を得ている人や企業が沢山いることを物語っている。この10数年間に、日本は欧州よりも平等で格差の少なかった国から、急速に米国並みの経済的格差と希望格差の大きな国に変質してしまった。自己責任・能力主義という「競争原理」、選ばれた強き者だけが生きのびられるという思想が、社会のルールとして政策や経営方針に強く反映されてきている。これはまぎれもなく、私たちが選択した政治の結果なのだろう。しかし社会にはさまざまな悲鳴や嗚咽、憤りや絶望、空虚感で満ち溢れている。この延長線上にどんな未来を私たちは見出せるのだろうか。

 条件的には不利にもかかわらず何故か元気な地域もあれば、恵まれた条件下にあってもうまく活かせていないところもある。社会の人的資本や物的資本、金融資本など多様な蓄積された資本がうまく活かされるか否かは、「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という隠されたリンクが重要な役割を果たしている。社会関係資本が豊かなところでは、国や、地方、企業、市民などが効率的に機能し安心・満足度も高いが、それを欠くところでは資本が活かされない。その要素は相互信頼や連帯感、互酬性の規範といった人々の間にあるネットワーク力であり、「ご近所の底力」もその一つと言える。近年の研究で、人々のコミュニケーションの質・量と信頼感がこれと強く関連していることが分かってきた。

 具体的な課題で考えてみよう。農村社会は住民の緊密な協力で営まれ、取り巻く自然環境も人々の協働で維持されてきた。社会関係資本が強く存在するのが農村で、都会では地域社会と切り離された人々が経済的活動に邁進しているだけとも見える。それでは農村は信頼性の高い社会かというと、視点を少しずらしてみると異なった様相も窺える。農村は人々の移動が少なく連帯を強制された共同体的側面があり、一般的な他者への信頼は育ちにくく、他者と協働して新しい関係性を築くことは不得手な社会とも見える。他方で都市は、他者の意図を見抜き騙されることなく協働できるか判断する能力を持つ人々がチャンスを掴む社会とも言える。閉鎖系社会の信頼を不要とする結合関係に安逸を求めるのか、解放系社会で新しい信頼を構築しながら活性化を進めるのかで、社会の展開に大きな違いが生じる。人口減少社会の活性化策は、よそ者を信頼し繋がることで可能性を拓くことかもしれない。

 また労働という視点で社会を見ると、コスト削減のため非正規労働者を増やし、任期制・裁量労働制を拡大するなど効率化を正当性とした能力主義への傾斜が、短期的な視点で人を評価し、労働者間の差別化、連帯を破壊することを助長している。評価の名の下に、相互不信の構図と、弱者への抑圧の移譲も強まっている。このような不信の連鎖は、職場や地域社会を人々が協働する場から、互いに批評し糾弾しあう場へと変質させてきた。生み出された社会的ストレスは、ともに公共圏を築く協力を不可能とし、皆が自分を被害者だと主張し、公的とみなすものへ批判と攻撃を行なうことで鬱憤を晴らしているかのようだ。

奪い合う関係から、繋がり支えあう信頼の関係へと社会を変えていくために、まず身近な社会関係性を競争原理から信頼原理へと変えることが求められる。そんな人に優しい社会を実現するために、小さな信頼性構築の試みが広がることを来年の願いとしたい。

(この原稿は2006年12月に熊本日日新聞社の論壇に寄稿した元原稿です)

公務員不信のスパイラル

公務員不信のスパイラル   上野眞也

 公務員の非効率な仕事ぶり、不祥事が新聞に載らない日はない。かつてのお役人から公僕へ、そして今では穀潰しと、公務員の評価は地に落ちている。確かに正鵠を射た批判もあるが、「政治の失敗」も含めた安易な行政と公務員に対する不信、シニシズムが広がってきた。公務員は非効率だ、人数を減らせ、給与を下げろという合唱が行政改革で起きたが、公務員制度をこのような信頼性を欠いたシステムとしてしまうことに危惧を感じる。

 民間企業は、これまで人的資本の効率的な活用に取り組んできた。年功序列、終身効用という日本型雇用システムを問題とし、成果主義が導入された。この変革は人件費を削減し企業業績の回復に寄与したが、他方で組織への忠誠心を失い企業自体の人的資本の流出など中長期的に組織の活力を蝕んでいった。いま公務員制度にも、企業経営の手法を取り入れた成果主義が導入されつつある。このため給与・昇進格差をつける明確な職階制と成果主義を導入して、総人件費の抑制や総定員を削減することが目指されている。

公務員制度は非効率な組織の典型とされるが、本当なのだろうか。日本の公務部門は、諸外国と比較して圧倒的に小規模で運営されている。先進諸国に比べ公務員数の比率は極めて少なく発展途上国並みである。しかし国民にとって、公務員は多すぎると考えられている。公務員の適正数は、どの程度の公共サービスを欲するのかに規定される。もっと小さな国家を目指す政府は、「骨太の方針」で更に5.7%公務員を縮減していくこととした。中央政府を縮小し、公共サービスを民間やNPOと協働しながら作り出していくことに異存はないが、地方分権で地方の役割が増えており、住民の安心・安全を確保するためには効率的で大きな地方政府が必要なのではなかろうか。

行政批判としてよく聴かれる「増税をする前に、効率的な使い方を!」という意見には、行政は無駄な働きをしているという不信感が漲っている。むしろ税を活かしたこういう行政活動を望むという議論が建設的なものであろう。また日本では公務員は競争試験に合格したものを採用する閉鎖的昇進システムが採られ、その給与は大企業と比較すると低い水準に置かれている。それでも高すぎるという批判があるが、現実には官民を問わず高度な業務を処理できる人材を得るには、相当の報酬を払わなければならない。そして今優秀な若者の公務員離れがおき始めている。

いま導入されつつある成果主義には、単にカネと鞭で人を働かせようとして失敗をした民間の教訓を活かすことが重要である。つまり効率的な公務員制度を維持するためには、金銭的報酬と心理的報酬のベストミックスが求められる。日本型人事の特徴は遅い昇進システムで、誰がトップに昇進するのか明確にせず、長期間安い人件費で競争と努力を強いる。大部屋でチームワークによる仕事を行い、自発的に能力と組織への忠誠心を高めていく巧妙なシステムであった。職務分類の曖昧さも、ふだんと違った仕事にも柔軟に組織として対応する工夫である。個人業績評価は、人材の能力向上と組織効率化に有用な情報であるが、これを短期的に褒賞に結びつける人事評価は、評価される成果を挙げることだけに専念し、組織目標の達成や効率化を進めることに繋がらない。他者への協力は、自己にとってマイナス査定となると考えるような組織風土を助長し、職務への動機付けに大きく影響する。

公務員不信のスパイラルは、職員の志気、気概を喪失させるのみならず、国民にとっても不安を掻き立てる効果しかない。この失われた信頼を回復する責任は、もちろん行政側にある。何事にも挑戦しない、最低水準の仕事しかしない人は不要であり、何かを創造することに挑戦するような公務員の育成システムが今求められる。他方で、国民にも自分たちのための組織として評価する姿勢がないと、この公共システムは失速してしまうかもしれない。

(この原稿は2006年7月に、熊本日日新聞社の論壇に寄稿した元原稿です)

「忘れられた日本人」を読んで

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んで

 熊本大学大学院社会文化科学研究科公共政策学専攻

                 柳田 紀代子

本書の世界は、テレビはもちろんまだなく、ラジオがやっと普及し始めた頃ではないかという時代。記録されることのほとんどなかった日本の農山漁村の人々の生活が描かれている。

 宮本常一が古老たちを取材したのは、昭和1030年代。記録しなければあっという間に忘れられてしまう性質のものを情熱と丹念な聞き取りによって、いきいきと今の時代に伝えている。

本書に出てくる人生は多様である。貧しい生活の中で必死に働き続けた人が多いが、諦観し乞食生活を受け入れた老人もいる。村の生活がよくなるように身を捧げた人生もあるし、ひたすらに男女関係にいそしんだ人もいる。

考えてみると、私自身これまで、古い農村社会は因習に縛られた封建的ムラ社会というイメージを持ち、そこで暮らす人々はそこで生まれ、そこで育ち、そこで生を終えるという思い込みがあった。

ところが、本書によると、意外にも、村の人たちは、型にはまらず、旅に出たり、戻ってきたりする。特に、若い娘たちが世間を知るため、身一つで旅に出るところはにわかには信じられない気持ちであった。交通が発達し、治安がよい現代と引き比べてみると、ずいぶんと無謀で行動的な娘たちである。身の危険を感じなかったのだろうかとの疑問が湧いたが、男と女が歌のかけあいをする歌垣や夜這いの場面を見ると、性についても自由奔放に生きていたことがわかる。

また、「土佐源氏」は、村の共同体からはじき出されたような盲目の元馬喰の生涯を聞き取ったものである。馬喰といえば、差別や蔑みの対象であったと書きながらも、様々な女性達と関係を持ち、身分の高い女性2人とは心を通わせた関係になる。読んでいる内に、山奥の荒れ果てた家の土間で、腰の曲がった老人から昔話を聞いているような気持ちになるまさに文学といえる内容であった。
 これまで持っていた古い農村社会イメージ、思い込みを本書は、見事に覆してくれた。宮本は、東京中心の考え方に反発しており、宮本の出身である西日本での記述が大部分を占めているが、各地方にこうした多様なムラ社会があり、「素朴でエネルギッシュな」名もなき人々の存在から、近代日本の発展につながっていったのだろう。

全編を通して、興味深い内容であったが、特にわたしがひきつけられたのは冒頭「対馬にて」の「寄りあい」の方法である。「対馬にて」の項には、対馬の北端、伊奈の村で見聞した村人たちの寄りあいの様子が書かれている。
 村で何か問題が起こり、取り決めを行う場合には、寄りあい所に村人が集まり、みんなの納得がいくまで何日も何日も話し合う。途中で食事のために家に帰ったり、眠くなったら中座してまた戻ってくることもあるという大らかさである。性急に結論を急ぐのではなく、問題に関係のあるそれぞれの経験談や伝承話により、話に花が咲く。一見雑談のようなその話し合いは、大勢の人間が何日も時間をかけて行う。
 非常に悠長な話ではあるが、これは単に答えを出すというだけではなく、村人たちがお互いに考えていることや知っていることを伝え合い、それだけ時間を掛けて、多面的な見方から導かれた結論だから、村の皆が納得し、約束を守るためにも役立ったのだろう。強引な結論は村人たちの疑心暗鬼を生み、小さな共同体においてそれは致命的なこととなる。この合議制は村人達自身の自治の形である。
 興味深かったのは、この寄りあいでは、「郷士も百姓も区別はなく、領主―藩士―百姓の立場になると、百姓の身分は低いが、村共同体の一員となると発言は互角であった」というくだりである。現代の日本では、スピードが優先され、情報過多でもある現代、そのため結論も安易に得やすく、一方的にそれぞれの思惑による結論になったり、ややもすると「声の大きい人の意見がとおってしまう」ことに慣れてしまっている今の日本や組織の物事の決め方とは大違いである。

さらに、驚くのは、その寄り合いの結論が出るまでじっと寄り添って、そこに隠された哲学とも呼ぶべきものをていねいに拾い上げた著者の忍耐強さと懐の深さである。

現代において、住民参加と言えば、住民討論会や住民投票を思い浮かべるが、同じ地域にずっと住む人々にとって、意見がまっぷたつに割れるような場合、合意を得る作業を蔑ろにすると住民の反発を招るであろうし、また、たとえ丁寧に合意を得る作業を行ったにせよ、結果的に合意を得られなかった場合には、かなりのしこりを残し暮らしにくい地域になるのではないだろうか。
 それ以外にも本書は、現代社会に様々なヒントを示唆してくれている。若隠居の話は、社会の第一線から退いた高齢者が、どのように社会と繋がりを持ち、どのような役割を果たして生活すればよいかを示しているし、貰い子の話では、母親が自分で育てられない辛い思いの中で、せめてこの子にとって、よい環境とよい人間関係のある家を探そうと泊まり歩く。「子供は世の中のもの」との考え方で、親ではなくても、育てる力のあるものが育てるという素朴な相互扶助の考え方が無理無く受け入れられていたことが推測される。「こうのとりのゆりかご」を置いてしまった、置かざるを得なかった現代と大きな違いがある。  

本書の解説(網野善彦)の中で「宮本は、自叙伝の中で、『・・・いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうか』という問題を考え続けたという。『進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある』と述べ、現代の人間につきつけられた課題そのもの」と述べている。

翻って現代を見てみると、核家族が増えてゆき、地域の中での繋がりや連帯が薄れる一方であり、子ども達の生活もゲームや携帯電話に拘束されてしまう現在、以前は家族や地域の中で行われていた語り継がれた伝承や生活の知恵が姿を消していっている。
 宮本が、「進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めていくことこそ、我々に課されている、最も重要な課題」と述べているように、家庭の機能や地域の連帯が薄れつつある中、失われつつあるものを再生する知恵を持つべきなのではないかと感じた。

私たちは快適で便利な生活と引き換えに失ってしまったものがあるのではないか。本書に書かれた世界は、50年以上も前の話であるが、想像以上に素朴で自由な村人たちの生き方に十分共感できる部分がある。自分の中に、本書で書かれているエネルギッシュな人々から連綿と続く“何か”を引き継いでいることを実感する一冊だった。

              (20096月17日)

『内発的発展論と日本の農山村』を読んで

保母武彦『内発的発展論と日本の農山村』を読んで

熊本大学大学院社会文化科学研究科公共政策専攻1年 

                  柳田 紀代子

「内発的発展論」という言葉は、1975 年の国連経済特別総会に提出されたダグ・ハマーショルド財団の報告書『なにをなすべきか』の中で「もう1つの発展」という概念を提起した際に、「内発的」という言葉を「自力更生」と並んで用いたことが最初だとされている。内発的発展論とは、欧米が工業化していった経験をもとにつくられた、先進地域と接触することで、近代的な状況へと発展するという近代化論や外発型の発展に異議を唱えた発展理論であるが、論者によってかなり内容に開きがあるようである。

本書においては、内発的発展という言葉は「アメリカが、ベトナム戦争で決定的敗北を喫し、石油危機によりインフレと不況が同時進行するなど欧米の近代社会が築いてきた国際秩序が揺れ動いた時代であった。・・・欧米型社会ともソ連型社会主義とも異なる発展モデルを模索しはじめていた。宗教、歴史、文化、地域の生態系の違いを尊重して、多様な価値観で多様な社会発展を図ろうとするものであった。」とする

現代社会を見てみると、経済諸活動の高度化・拡大に起因する地球温暖化、オゾン層の破壊等の地球環境問題や、途上国における人口増加、昨年来のアメリカのリーマンショックから世界規模の不況、そして、ここ数週間、なすすべもなく水際作戦のみに頼る状況の新型インフルエンザに代表される感染症といった国境を越える問題が深刻化する中で、従来までの近代社会が築いてきた欧米近代化論では、すでに限界を超えた状況であり、解決の糸口が見いだせない状況にある。内発的発展論は、限界に達した近代化論に代わる新たな発展モデルとして、これまでの流れからの観点を打ち破り、人間と人間、自然、文化、地域経済とが顔の見える関係で根づいている「地域」を中心に多様な社会の発展を見ていこうとする考え方である。
もともと、国連機関における内発的発展論は、途上国の新たな発展論として提起されたものであるが、日本では、農山村など、欧米の近代化論でいうところの発展の遅れた地域においては、共通の課題があることから農山村の地域づくりと結びついて論ぜられることになった。

本書は、この内発的発展論について、多くの日本の農山村における実例をもとに、より具体的なかたちで論述してある。農山村の現地調査を行い、その中に地域発展の法則を見出そうとしている。また、戦後日本の農山村政策の検討を踏まえて、政策的な提言を出している。

保母は、多くの農山村の現地調査やアンケート調査の結果、ドン底から地域再生を果たした実践事例を踏まえ、「今後の農山村は「生産」と「環境」をキーワードにしていくことが必要である。地域づくりの目標は、「維持可能な発展」と「生活の質」におかれる必要がある。地域振興の方法としては、複合経済の確立、農村の共同事業の実施が大切なテーマとなる。決定的なのは住民の参加と自治である」。としている。
 このような視点から農山村の現代的状況、特に過疎の問題を通して、日本の農山村の農林業・農山村がもつ公益的機能の評価を論じる。農林業・農山村を維持する必要性として、食料供給だけでなく、洪水防止、地下水涵養、水や大気の浄化効果、教育的効果、自然文化資源の提供などの外部経済効果があるとし、「日本の農山村の衰微は、農山村居住者だけの問題ではなく、食糧、水源や余暇活動の場を農山村に求める都市住民の問題であり、また国内の木材や食糧生産をおろそかにして輸入に依存するという点では、地球環境の問題でもある」。
 そのため「国家政策としては、何よりもまず、農林業・ 農山村が持つ社会的の評価において、食糧生産機能に加えて、地球環境、国土政策(治水、流域管理等)及び都市住民(健康、余暇等)にとって国内の農山村の維持存続が欠かせないことの認識をはっきりさせる必要がある。そして、農家の維持存続や農村集落の維持存続を経済的に支える制度的、財政的制度の検討が急がれる」。とする。
 これまでの、経済効率優先の立場からの政策を180度転換させ、環境、国土保全と都市と農村との交流からの再評価を促す。また、「農業・農村政策は国内なり地域からだけでは発想しえなくなっている。アメリカでは、70年代の食糧危機から80年代の食糧過剰の時代となり、ECは農産物輸出ダンピング、東南アジアの食糧自給・・・といった国際的な農業と農産物貿易の動向に左右される。はっきりしてきたことは、農業生産のみの生産性向上や規模拡大といった経済効率を優先する政策路線では、環境問題などによって世界的に農業も農村も持続させることが困難になっていることであり、農村の持つ資源、環境・景観を含めて地域社会に対する総合的視野を持つことの大切さである。」としている。 地球規模の農村問題を解決するためには、そういった総合的視野をベースに、「有効な人工政策」「就業対策」「生活対策」が必要とする。    農山村は一般に都市部などと比べて経済活動の条件が劣っており、農業生産性が低く、他種類の職業選択の機会に恵まれていない。自然の成り行きにまかせれば、人口の減少や集落の自然消滅が進むことになるとしており、「その歯止めとして公共的関与と地域の自治が必要である」とし、地域内の資源、技術、産業、人材などを活かして、産業や文化の振興、景観形成などを自律的に進めることを基本とする内発的発展論にもとづく政策としてなされる必要があるとしている。
 様々な事例から導き出されたこの結論は、現実の重みがあり、説得力がある。
 興味深かったのは、戦後の農山村政策を振り返った第2章である。1970年の疎過地域対策緊急措置法が議員立法として成立した際に、過疎法に対立的な内容の新全国総合開発計画(新全総)が策定された経緯である。「人口の過度の減少を防止する」ことを目標とし、過疎地域の人口なり地域社会をそのものとして維持していくことの目標を置いた過疎法と農村の人口流出を生産性の低い農業に従事していた農村の過剰労働力が大都市の労働力需要に満たすものとして農業・農村人口の減少をむしろ望ましいものとして位置付ける新全総とは考え方に決定的な違いがある。つまり、初めから矛盾を孕んだままのスタートであり、これまで様々行ってきた過疎対策が必ずしも過疎地域を救ったと言えない状況で、過疎地域は、人口の増加はおろか集落の維持さえ困難で活力のない産業経済となっている。保母は、このような現状をもたらした原因を3点挙げている。一つは前述した政策理念の矛盾、2つ目は地域政策が未確立で地理的、社会的に不利な地域に高生産農業をもとめている点、3つ目は財政政策手法の問題点として、主な財源が過疎債であったため、施設の建設が中心となって、住民が過疎地域に住み続けることに必ずしも繋がらなかったことを挙げている。

ここで、保母は具体的な政策を提案する。例えば、生産条件の不良な中山間地域に対して、ECにおける「ハンディキャップ地域政策」のような環境保全の具対策を提言する。「ECのハンディキャップ地域政策の目的は平坦部に比べてハンディキャップを持つ山岳地域の農業に助成して、限界的条件をもったこれら地域における人口の維持、自然と国土の保全をはかることにあるとし、その目的を所得政策、人口政策、環境保全政策(農村景観の維持)の3つの機能を併せ持っている」としている。あるいは経済効率至上の理論からの農山村補助金の変革を提案する。

また、保母は、「自立」と「自律」を明確に使い分けている。「今日のように、経済社会が全国化し、さらに国際化している中では、国内の地域経済の自立は・・・基本的に存在しないと考えるべきであろう。必要なのは、自律であり、地域の自己決定権を発揮することである。」

このように、保母は、経済効率を最優先に進められてきた日本社会に地域の「自律」概念を持ち込み、「維持可能な社会」の実現、「生活の質」の重要性を強調する。
 本書の第2章において、過疎対策における国の政策理論が矛盾を孕んだままスタートしたことを指摘しているが、まさにその影響が今もって続いていると言えるのではないか。新過疎法の制定に際し、その農山村の持つ環境や国土施策の観点から、農山村の「自律」のためという理念を反映されるかどうかを注目していきたい。

                              (2009年5月8日)

2009年7月2日木曜日

平成21年7月の自治研究会のご案内

熊本大学政策創造研究教育センターでは、毎月地方自治に関する研究会を研究者、学生、行政実務者、政治家、シンクタンク関係者などの参加を得て開催しています。7月の研究会のご案内です。
--------------------------------------------------------------------------------------
地方自治研究会メンバー ほか 各位
梅雨の中休み、今日は一息ついているところですが、皆様におかれましては議会など、ご多忙のところだと拝察します。
さて、ご案内が遅れてしまったのですが、7月の研究会の日程が下記の通り決まりましたので、ご案内申し上げます。
熊本は政令市もほぼ目処がついてきているようで一安心しましたが、総選挙前に俄に首長連合や東国原知事の国政への転身など地方分権を政治的なアジェンダに設定して発言力を増す人々も出てきているようです。ちょうど7月中旬に三重県で知事会議が行われる
そうで、出席される神谷さんに最新の知事会の動向についてご報告をお願いいたしましたところ、ご快諾をいただきました。
興味深い話が伺えるものお思います。どうぞお繰り合わせの上ご参加ください。
        記
日時:平成21年7月21日火曜日午後6時〜8時まで
場所:熊本大学政策創造研究教育センター4階講義室
報告者:熊本県総合政策局企画調整課長 神谷 将広 氏
演題:全国知事会の関心と活動方法について(仮)

なお、8月の研究会は次の通りです。
日時:平成21年8月3日月曜日午後6時〜8時まで
場所:熊本大学政策創造研究教育センター
報告者:福岡県立大学 光本准教授
演題:自治と依存

なお、資料等の準備の都合上、出欠についてご連絡をよろしくお願いいたします。
連絡先:長谷部政策研究員
メール: hasebeak@kumamoto-u.ac.jp

研究会代表
熊本大学政策創造研究教育センター 
上野眞也
096-342-2038

2009年7月1日水曜日

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ―を読んで

シーダ・スコッチポル著 / 河田潤一訳(2007

『失われた民主主義――メンバーシップからマネージメントへ――』(慶應義塾大学出版会)を読んで

熊本大学大学院社会文化科学研究科博士後期課程 椿 優子

 本書は、19世紀初頭からのアメリカ合衆国における市民世界の変貌を「メンバーシップからマネージメントへ」の変化として捉えている。その視点は、「歴史的制度論」的なものから変化する社会的・政治的条件、自発的結社に焦点をあてている。

 1970年代から90年代に、市民世界は変貌-より古い自発的なメンバーシップ連合体は急速に衰退-したが、他方、新しい社会運動や専門的に運営される市民組織が登場し、全国の市民生活の目標や価値を定義し直した。

 結社自由主義のこうした衰退を、ロバート・D・パットナムのような「社会資本」論者や一部コミュニタリアン(地域第一主義者)は悲観し、他方、リベラル派(全国第一主義者)は称賛する。けれども、スコッチポルは、前者が想定するその原因を「世代交代の漸進的プロセスに求めることはできない(p.150)」とし、後者には、「全国的なプロジェクトやアイデンティティがつい最近になって出現したと考えるのは、過去のアメリカ市民社会をひどく誤解することでもある(p.190)」とする思考方法を問題とした。

 スコッチポルは、アメリカにおける過去と現在の市民生活の傾向を「自発的結社が長い間にいかに変化したかを説明し、変化が、我々の民主主義にいかなる影響を与えたか(p.15)」を長期にわたって集めた資料と幅広いデータと証拠において言及している。

 1960年代の「メンバーシップからマネージメント」への変化を、社会的、政治的、技術的変化の結合から生まれたものと認識し、新たに出現した市民世界は著しく寡頭的という。現代のアメリカは、こうした意味で「失われた民主主義」の時代にあり、「アメリカ人は、民主的ガバナンスと多数の市民の関与を可能とする代表制システムを通じて自己統治する草の根結社の間のつながりを強化する方法を見出さなければならない(p.250)」と述べる。

以上は、本書の内容を紹介である。スコッチポルの貢献は、パットナムやコミュニタリアン、他方のリベラル派の主張を批判するが、それらの主張を補う議論ともなっている。前者は、対面的な社会的つながりの相互作用的な結びつきを重視し、後者は、「革新的な『全国的コミュニティというビジョン』と、それに付随して巨大化する『大規模で中央集権化された連邦政府』(p.8)」の強化を重要と主張する。このように、前者と後者、または「大規模で中央集権化された連邦政府(p.8)」と「『自然な』草の根コミュニティ(p.8)」などのように、問題を二項対立的に捉える視点と、スコッチポルの視点はさらに異なっていて、学ぶ点が多い。そうであるので、日本の市民世界は、本書の分析しているような「メンバーシップからマネージメントへ」の変化が見られるのかということに、興味を持った。

スコッチポルは、「我々が失った市民的世界へと戻ることなどはありえない(p.252)」というが、「過去の我が市民社会の最良の部分を再創造する方法を探すことはできるし、またそうすべきである(p.252)」と述べることから、市民社会を再構築するために、草の根結社間のつながりを強化する方法を見出そうとする具体的提案は注目するに値する。