2009年7月11日土曜日

地方議会は誰を見ているのか

地方議会は誰を見ているのか  上野眞也

議会を支える代議制民主主義について、著名な経済学者ハイエクは「人間がいままでに発見した平和的な政権交代の唯一の方法として、それは消極的な価値ではあるが、最高の価値の一つである」といっている。しかしこの民主主義制度の致命的欠陥は、特殊な集団に有利となるような計画を支持するためには、組織された多数派を形成することが不可欠であり、議会の多数が多数派にとどまるためには、種々の利益集団に特殊な便益を与えることが必要となる。つまり支持を獲得するためには、なし得ることをしなければならず、それが政党や議員行動の恣意性をもたらし不公平の源泉となっている。公選された議員によって組織され、住民の意思を代表し、合議制により決定する議会制度が言われるほどには民意を代表していないということは、誰もが感じていることである。

 福祉国家体制が充実するにつれ、家庭やコミュニティ機能の衰えを公的サービスは補ってきた。しかしいま、人口減少社会、経済成長の分配が減少する時代に突入し、まったく新たな政策的対応が求められているが、国民は増税には反対し、行政の効率化により従来の公的サービスが維持されることを期待している。しかしそれがほとんど不可能であることは明らかであり、増税を避けるとすれば、住民の間で既得権化してしまった種々の公的サービスを廃止したり、受益者負担を増したりすることが政策として取りうる唯一の方策となる。改革が求められる時代の首長は、住民の既得権を侵すという冒険を行わなければならない損な役回りである。もちろんわが国では、行政の代表者である首長とて、すべてを一人で決める権限は与えられていない。地方議会は、執行部の組織や予算、条例などを決定することを通して、首長が何を行うべきかを決める強い権限を有している。つまり多様な意見を統合し、政策形成を行うことは議会の重要な使命であるが、その低下が著しく、世論形成やその表明についても、マスコミにその地位を奪われている。

 このような意味において、住民の代表であるという地方議会は、果たして民主主義制度上期待されている役割を果たしているといえるのだろうか。近年たくさんの住民が行政の委員会や審議会に公募で参加し、また直接自分の意見を首長に提案することを求めている。行政が行う事業の企画から執行、評価に至るまで住民が直接参画するということは、住民参加の視点から大変価値があるとされる。

しかし他方で、本来地域の政策方針を議論し決定する役割を担うべき地方議会や議員に対して、選挙時を除いて誰も関心を持っていない。議会も住民に対して、議会における検討状況や結果について丁寧に説明を行うとか、住民の声を議会が聞く機会を作るなど、住民を向いた議会活動をしているところはわずかである。その点で、住民が手っ取り早く行政に参加したがる気持ちも理解できるが、本来政策選択の価値観をどう考えるかといった議論も含めて多様な利害の調整を行う政治の場、つまり議会が住民を向いた対応を行うべきであり、地方分権の時代にあっては住民が議会の審議に何らかの形で意見を表明し参画できるような機会を、議会自らが作っていくような改革をするべきではないかと考える。

 また議会が住民にもわかるようにテーブルの上で方針決定の議論を行わず,執行部に事前根回しを求めることは机の下で利害調整を求めることと同じであり、住民の議会への信頼感を失わせている。議会は期待に値していないという住民の不信は、行政への住民参加の要求や、直接民主主義的な住民投票など、地方議会を迂回した住民行動に結びついてくることになった。

 議会の信頼性回復が、地方自治を深化させる重要な鍵である。議会の権威は、住民の信頼を得た活動を不断に行うことからしか生まれないという当り前のことを自覚する議員を選ぶということを住民の責務としても考えたい。

(この原稿は、2006年10月に熊本日日新聞社の論壇に寄稿した元原稿です)

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