2009年7月11日土曜日

「信頼」を育む社会に

「信頼」を育む社会に      上野眞也

 今年最後の日、1年を振り返り、私たちがどこに向かいつつあるのか考えてみよう。姜尚中教授は1217日の「論壇」で、 06年のイメージを「虚」とした。文化・宗教摩擦による対立や紛争が世界を覆い、国内でも学校のいじめや首長の逮捕、自治体の破綻と哀しいニュースが連日報じられた。一段とグロテスク化していく世界経済や肥大化する国家意識がもたらそうとしている世界が、さらに虚ろなものになるであろうと私も想像する。来る07年にぜひ期待したいことは、身近なところから「信頼」という社会の資産を増やすという試みだ。

 東京湾越しに眺める都心の景色には、東京タワーより高く聳える沢山の建設中の超高層ビルが映え、バブル期を越える活況を享受し莫大な収入を得ている人や企業が沢山いることを物語っている。この10数年間に、日本は欧州よりも平等で格差の少なかった国から、急速に米国並みの経済的格差と希望格差の大きな国に変質してしまった。自己責任・能力主義という「競争原理」、選ばれた強き者だけが生きのびられるという思想が、社会のルールとして政策や経営方針に強く反映されてきている。これはまぎれもなく、私たちが選択した政治の結果なのだろう。しかし社会にはさまざまな悲鳴や嗚咽、憤りや絶望、空虚感で満ち溢れている。この延長線上にどんな未来を私たちは見出せるのだろうか。

 条件的には不利にもかかわらず何故か元気な地域もあれば、恵まれた条件下にあってもうまく活かせていないところもある。社会の人的資本や物的資本、金融資本など多様な蓄積された資本がうまく活かされるか否かは、「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という隠されたリンクが重要な役割を果たしている。社会関係資本が豊かなところでは、国や、地方、企業、市民などが効率的に機能し安心・満足度も高いが、それを欠くところでは資本が活かされない。その要素は相互信頼や連帯感、互酬性の規範といった人々の間にあるネットワーク力であり、「ご近所の底力」もその一つと言える。近年の研究で、人々のコミュニケーションの質・量と信頼感がこれと強く関連していることが分かってきた。

 具体的な課題で考えてみよう。農村社会は住民の緊密な協力で営まれ、取り巻く自然環境も人々の協働で維持されてきた。社会関係資本が強く存在するのが農村で、都会では地域社会と切り離された人々が経済的活動に邁進しているだけとも見える。それでは農村は信頼性の高い社会かというと、視点を少しずらしてみると異なった様相も窺える。農村は人々の移動が少なく連帯を強制された共同体的側面があり、一般的な他者への信頼は育ちにくく、他者と協働して新しい関係性を築くことは不得手な社会とも見える。他方で都市は、他者の意図を見抜き騙されることなく協働できるか判断する能力を持つ人々がチャンスを掴む社会とも言える。閉鎖系社会の信頼を不要とする結合関係に安逸を求めるのか、解放系社会で新しい信頼を構築しながら活性化を進めるのかで、社会の展開に大きな違いが生じる。人口減少社会の活性化策は、よそ者を信頼し繋がることで可能性を拓くことかもしれない。

 また労働という視点で社会を見ると、コスト削減のため非正規労働者を増やし、任期制・裁量労働制を拡大するなど効率化を正当性とした能力主義への傾斜が、短期的な視点で人を評価し、労働者間の差別化、連帯を破壊することを助長している。評価の名の下に、相互不信の構図と、弱者への抑圧の移譲も強まっている。このような不信の連鎖は、職場や地域社会を人々が協働する場から、互いに批評し糾弾しあう場へと変質させてきた。生み出された社会的ストレスは、ともに公共圏を築く協力を不可能とし、皆が自分を被害者だと主張し、公的とみなすものへ批判と攻撃を行なうことで鬱憤を晴らしているかのようだ。

奪い合う関係から、繋がり支えあう信頼の関係へと社会を変えていくために、まず身近な社会関係性を競争原理から信頼原理へと変えることが求められる。そんな人に優しい社会を実現するために、小さな信頼性構築の試みが広がることを来年の願いとしたい。

(この原稿は2006年12月に熊本日日新聞社の論壇に寄稿した元原稿です)

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