2009年9月7日月曜日

 白水 智『知られざる日本~山村の語る歴史世界~』(NHKブックス)を読んで
 大学院社会文化科学研究科公共政策学専攻1年 柳田 紀代子     
 山間地の集落機能維持を考えるという調査の一環で、先日、“五木村”に行った時に浮かんだ問いが「なぜ、人は不便な山村に住み続けるのだろうか」である。この問いを心に留めて、本書を読み始めた。
 本書の序章は、携帯電話の通話エリアの地図から始まる。通話エリアの人口カバー率97.5%という数字とそれに対応する地域は、地図上では半分程度の面積であるとする。逆算すると、日本の人口の2.5%が、国土の残り半分の面積に暮らしているとの指摘は大変新鮮なものであり、ビジュアルに訴える上手いやり方だなと感心しつつ読み進めた。また、「ダムの水没予定地に村人戻る」との新聞記事に著書同様「なぜ」との疑問を抱く。
 そこから、山村の歴史や生活の記述が始まる。白水は、山梨県の早川、信州の秋山郷などの調査に基づいて、山村を研究していく。白水が指摘するように、確かに、小学校の社会の教科書でも「農村」について学んだ記憶があるが、「山村」というのは、あまりイメージがない。あるのは、黄金色に輝く稲穂が一面に亘る平地の田んぼのイメージである。
 このような日本人の抱く農村のイメージから見た視点でのみ語られてきた山村は、石高も低く貧しいという固定観念が根付いてしまったとする。確かに、山村生活は知らないが故に、いわれなきマイナスイメージがいつの間にかついてしまったことは否めない。白水は、民俗学的研究や考察が優先して、歴史的研究が山村に関して行なわれなかった事も大きな原因だと指摘する。
 本書の中の史料から読み取れる山村は、これまでのイメージを大きく変えるものである。
一般的に「米」を主食とする日本人には、「米を食べられない山村は貧しい」という抜きがたい偏見がある。が、実際には海辺には魚介類が恵まれてきたように、山には山の恵みがたっぷりとあった。木の実などの山の幸をはじめとする自然からの恵みを享受して多様な食文化を形成していた。山の木そのものが貴重な資源であり、多くの有名な寺は良材の採れる村を確保しておくことが重要な課題であり資産でもあったとする。 
 鄙びたというイメージは、実は、山で暮らす人々の戦略であったりもする。税の徴収の重みを減らすには米が食べられず稗・粟などの雑穀が頼りという、貧しいイメージが恰好の道具立てであり、山村の人は自ら村は貧しいという建前の文書を作ったりしたという。また、「山間の鄙びた村」という固定観念は、「隔離された閉鎖的な村」というイメージを持つが、平地との交流やあるときは農業、林業、商売をしたり、出稼ぎに行っていたりと様々な生業に従事している。さらには江戸や京都への木材供給源として現金収入があったり、鉱山があったりと、農村と比べてもより多様な生活があった。「山と猟師と焼畑の谷」を引用し、「山村での労働には苦労と言う意味合いより楽しさと言う意味が大きい」とも指摘する。
 山間(やまあい)ということで交通が不便という平地の人の思い込みもあるが、当たっている反面、山には山の人のみが知る、山越えのルートがあり、どんな奥地にも村があって、その村のある道なき道を通らないと様々な交流・交易ができなかったわけで、実は、山の奥の要衝にある村というのは、重要な位置を占めることになる。
 高度成長時代に、国家の意図する分野・地域へ人を集約するために、「山の村が不便であり、日々の食べ物に窮するほどに貧しく、文字が読めず、情報に疎く」というイメージを誇大に活用し、都会へ人が流れ、結果として村の存立が危うくなっていったのだった。この点について、白水は次のように記述している。「山村の凋落が始まったのは近代になってからである。前章で見たように、意識として山村を見下す風潮はすでに古くからあった。しかし現実に山村の生活自体が成り立たなくなってきたのは、近代以降のことである。それは、あらゆる社会資本が平地、とくに都市部を中心に整備され、交通体系や流通・生産体系を初めとする、あらゆる政治経済の制度が平地中心にシフトしていったためと考えられる。とくに顕著にその変化が進んだ高度経済成長以後は、もはや山村はいずれ滅び去るしかないような状況となった。いわば時代から置き去りにされたのである。」 
 本書に記述されているものと同じ経過・同じ状況が、“五木村”にも存在していた。決して、閉鎖的でも貧しくもなかった地域が、全国の過疎地域や山村と同様の状況に落ち入っている。いや、更にダム問題で拍車がかかっているのである。しかし、豊かな山の恵みを受けながら、決して金銭的に豊かではないかもしれないが、自給自足に近い生活がまだ存在していた。
本書のレビューで、「狩猟、採集、焼畑、手工業生産など山村の「労働」に注目し、山の暮らしを支えてきた"循環"の思想に、右肩上がりの「発展」に疲れた現代社会への処方箋を見出す」という謳い文句があった。
 その部分を本書から抜書きしておくと「近現代に至る過程で、都市を中心とする平地は、伝統的な生活文化を捨て去りながら大きく変貌を遂げてきた。古くは平地にも共通に見られた生活文化のさまざまな要素が、現在では山村にしか残されていない場合も非常に多くなっている。このことは、かつては地勢間の対抗関係であった山と平地とが、現代では同時に時代間の対抗関係としての側面をも内包し、現出させていることを意味している。今や二重の意味で、山村はこれからさきの時代に向けて、過去の生活文化や自然との共存の知恵を見直す際の原点と考えるべきものとなった。マイペースで走っていたランナーが周回遅れで先頭に立ち、ハイペースで走りすぎて今や疲労しきった先進ランナーを引っ張っているような時代が訪れたといえるかもしれない。」である。白水は山村の再評価を主張する。
 本書を読む前に立てた問い「なぜ、人は不便な山村に住み続けるのだろうか」については、本書の中にまさにその答えが記述されていた。「平地には平地の、山には山の、海には海の、その置かれた環境に適合した生活様式があり、ある類型の長所に凌駕されない限り、人はそこに良さを認め、生活の場を移そうとは容易に考えないのだといえる。」 まず、「不便」と決めつけることこそが、「平地的な生活文化の視点で観察してきたからである。」ということであろう。
 最後に、今回、本書を読んで特に印象に残った一節があった。「先入観に左右される聞き取り」である。白水が「昔の食生活はどうでしたか」と聞けば、「米は食えないし、貧しい食事だった」と答える。ところが、「昔の食事で、これはうまかったというものはありますか」と聞く。すると「そばを食えるのは楽しみだった」とか「ほうとうはうまかった」という。極端に言えば、聞き手がこうだろうと予断を持って質問すれば、そのとおりの答えが引き出せるというのである。白水はそこから、「質問のしかたと、それに対する答えによって、山村の印象やとらえ方も異なってくる。従来の山村像を作ってきたのは、平地人の感覚であるのかもしれない」と指摘するのである。
 この一節は、これから研究に臨む際のあるべき姿勢を示唆してくれた。予断を持たずに、謙虚な気持ちで調査し、目に見える不便さ、金銭に換算しての価値ではなく、生活の中での、あるいは精神的な意味での「豊かな関係性」を決して見逃さないように調査にあたっていきたい。(H21.9.7)

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